ウィズダム和英辞典 小西友七先生追悼コラム
恩師 小西友七先生との思い出 岸野英治(『ウィズダム和英辞典』編修委員・甲南女子大学教授)
小西友七先生とは、30数年の長きにわたって、辞書の仕事を通して指導を賜り、ほんとうに親しくお付き合いをさせていただき、今もその思い出はつきない。
私が最初に辞書の仕事に携わったのは大学院生のころだった。小西先生は『プログレッシブ英和中辞典』(小学館)の企画に加わられ、編集に着手されていたが、その基礎となる用例の収集を依頼されたのである。主にReader's Digest から多数用例を収集し、その後数年にわたり、一般語、重要語の執筆、校閲を行った。
『プログレッシブ英和中辞典』が完成に近づくころ、先生は大修館書店から新たな英和辞典を出版されることを企画され、すでにその準備が始まっていた(当時はまだ「ジーニアス」という名は決まっていなかった)。私は、昭和54年10月から1年間英国留学が決まっていたのだが、その出発直前までカード収集に追われた。帰国後は本格的に執筆に取りかかった。私は主に、前置詞、疑問詞、接続詞を中心に担当した。またその間原稿放出もあったりして、その穴埋めの執筆なども随分行った。
そうこうしてようやく『ジーニアス英和辞典』完成の目途が立ったころ、先生から三省堂の和英辞典の編集を頼まれた。先生にとって和英辞典の編纂は初めてで、もちろん私にとっても初めての経験だった。和英辞典の執筆は、英和辞典とはまた違った難しさがあり、執筆者の原稿の統一が取れない、原稿のレベルがなかなか上がらないなど、苦難の連続だった。そのため、先生と相談して、1年間私の研究室で原稿を持ち寄り、勉強会を開くことになった。その途中で、もう一人の編修委員の三宅先生も加わられた。月一回の勉強会はなごやかな雰囲気で進められ、ようやく執筆原稿が上がるようになってきた。小西先生にもこの勉強会の内容を逐一電話で報告していたが、とてもご満足な様子で、いつも労をねぎらっていただいた。足かけ8年、平成3年12月ようやくこの辞典は『ニューセンチュリー和英辞典』として出版の運びとなった。年も押し詰まった12月31日夜、先生から電話をいただき、8年にわたる労をねぎらわれ、心からの感謝の言葉をいただいた。出来上がった辞書を手に取ってまた新たな感激が込み上げた。『ニューセンチュリー和英辞典』は、その後、平成8年に改訂第2版を、平成12年には名称を『グランドセンチュリー和英辞典』と改め、改訂版を出す。さらに平成17年には改訂第2版を出し、今日に至っている。
『ジーニアス英和辞典』もそうだが、この『ニューセンチュリー和英辞典』も執筆者はすべて関西圏出身者で占められている。先生は文化における関西の地盤沈下を嘆かれ、関西の文化の復興を強く望まれていた。辞書執筆者にもそのような気概を強く求められていた。
実は、『ニューセンチュリー和英辞典』とほぼ同時に進めている2つの英和辞典があった。『ランダムハウス英和大辞典』と『ラーナーズプログレッシブ英和辞典』(ともに小学館)である。後者は『プログレッシブ英和中辞典』を高校生にも使いやすいように編纂したものである。小西先生からは、私が協力してくれるならこの仕事を引き受けるが、どうだろうかという相談があった。私は即答はできなかったが、時間的に大変なことは覚悟の上で引き受けることにした。『ラーナーズプログレッシブ英和辞典』は『ニューセンチュリー和英辞典』とほぼ同時期の平成3年11月に無事出版された。
『ニューセンチュリー和英辞典』が出版された翌年、つまり平成4年には『英語慣用法辞典』(三省堂)の改訂作業を始めることになった。小西先生は、前々から改訂のことは気にされておられ、その時期を考えておられる様子であった。その年の10月ころ、大学教授会の後、研究室に来られ、私の意向を尋ねられた。数日後、シノニムの項目類を執筆する旨お返事をするととても喜ばれた。その後、編集責任者の一人としてサンプル原稿を書き、項目選定を行い、徐々に全体の執筆体制も整っていった。しかし、大部の仕事のため、計画が途中で何度も頓挫し、出版が危ぶまれる時期もあったが、平成18年4月に『現代英語語法辞典』としてようやく出版の運びとなった。15年の歳月が経過していた。この間私は父も母も亡くしていた。私も年をとった。それほどの長丁場だった。出版されたときには、小西先生は体調を崩されていたが、出版のお祝いとお礼の手紙を出したところ、直筆の丁寧な御礼のはがきを頂戴した。このときこれが先生との最後のやりとりになろうとは……。
『英語慣用法辞典』改訂作業の途中、先生から『アクティブジーニアス英和辞典』(大修館書店)に、コロケーション欄を執筆してほしいという依頼があった。Rudzka方式を採用してほしいということだったのでそのようにしたところ、ぼくの夢を実現してくれてありがとうというお礼のはがきをいただいた。
このころ、もう一つ取り組みかけていた辞書があった。昨秋に出版になった『ウィズダム和英辞典』(三省堂)である。小西先生から電話で、『ニューセンチュリー和英辞典』より一回り大きい和英辞典を作ってはどうかというお話があり、私も同意してその場で決まった。三宅先生にもお願いしてほしいということであった。当初は世紀の変わるころに出版するという目標を立て、鋭意仕事を進めたが、予定より7年近くも遅れてしまった。小西先生には、出来上がった辞書を見ていただくことはできなかったが、天国できっと喜んでくださっていることと思う。
先生との思い出は、このように辞書作りを通しての思い出でもあったが、私事にわたっても奥様ともどもたいへんお世話になり、いつも温かいお心遣いをいただいた。おはがきの最後には必ず奥様にもよろしく、と添えられていた。
『プログレッシブ英和中辞典』編集作業中に、小西先生は甲南女子大学大学院に非常勤としてこられ、時を同じくして私も同大学に専任として赴任することになった。授業が終わると、帰りはよく一緒に近くの阪急芦屋川駅まで歩いて帰り、その途中、仕事のこと、人生のことなどいろいろと話してくださり、先生もそれを楽しみにされているようだった。一度こんなこともあった。「今、(神戸市外国語大学の)学長候補に推されているのだが、岸野君はどう思われる? 若い人に推されると気持ちが揺れてね。」あまりにも突然だったので、私が返事に窮していると、先生からお茶を誘われ、芦屋川駅高架横の喫茶店でそのことについてお話した。私は、学長として一大学にとどまらず、辞書の仕事を通して広く世の中に貢献していただきたいという旨のことをお話したと記憶している。また時には、家に寄って帰らないかと誘われ、奥様も加わられ、楽しくお話させていただいた。遅くなることもあったが、帰りはいつもお二人で門の外まで送ってくださり、いつまでも手を振ってくださった。 その後、昭和58年には神戸市外国語大学を定年退官され、甲南女子大学教授になられ、さらに8年間ご一緒させていただくことになる。専任になられてからは、水曜日のお昼時間には必ず大学の裏山に一緒に出かけ、時には学生も加わり、神戸の港を眼下にサンドイッチを食べながら、話に花を咲かせた。
先生は昭和62年9月に古希を迎えられた。それを記念して、私は大学の『英文学研究』に、「小西友七先生の古希に寄せて」という次のような一文をしたためた。
…先生は大学卒業後一ヶ月余りにして大戦に参加され、ビルマのインパール作戦に従軍し、部隊の指揮にあたられた。戦況は一段と悪化し、当時部隊は極限の状態に置かれていたらしい。そのとき生死を分けたのは部隊の全員一致の協力と人の和であったといわれる。昭和61年3月6日の朝日新聞に、「終戦間近のビルマで出会った少尉を捜す」(小西先生のこと)というインタビュー記事が載った。私はこの記事を読んだとき、先生は大同のためには小異を捨てられ、ときには自己を犠牲にされることがあるが、そのような先生の性格が今なお脈々と流れていることを知らされるのである。敗戦後はビルマで抑留生活を送られるが、そのとき詠まれた歌がある。
われら 今 祖国に帰りぬ
いくとせの いくさ 終りて
灼熱の 南の はるけき海より
われら 今 祖国に帰りぬ
長い苦しい戦争とそれに続く抑留生活を思うとき、先生の祖国に対する望郷の念はいかほどのものであっただろうか。復員後は一時教壇に立たれたこともあったが、さらに京都大学で研鑽を積まれることとなる。それ以後次々と打ち立てられる学問的業績については私など語る資格はない。名実ともに英語学会の第一人者として君臨され、今なお日夜厳しくご研究に勤しまれ、それと同時に若い人の指導・育成に力を注いでおられるそのお姿を目の当たりに拝見していると、老いることをしらないその情熱はいったいどこにあるのだろうかと不思議に思われることすらある。
(中略)
先生の手になる近々刊行の『ジーニアス英和辞典』にはNipponという項目が設けられ、Japanと同じ重要語として扱われた。このような取り扱いは戦後40余年にしてわが国の英和辞典で初めての試みである。それは戦前・戦中・戦後の激動の日本を生き抜いてこられた先生の日本に対する愛着とみるべきであろうか、あるいは日本国の主張とみるべきであろうか。そもそも辞書作りの背後には常に国家というものがあった。OEDにしてもWebsterの辞書にしても国語を統一することは国家を統一することを意味した。わが国でも大槻文彦は国語の独立なくして一国の独立なしと信じ、『言海』の編纂に限りない情熱を注ぎ込んだ。日本が経済大国になった今、次に求められるのは文化大国である。そのためにもその架け橋の一つともなるべきすぐれた辞書がさらに必要になってくると思われる。幸いなことに先生は最近とみに健康を回復されつつあるようにお見受けしている。今後とも健康には十分に留意され、英語学の発展のためにそして後進のために限りなき愛を注ぎ続けてくださることを願ってやまないのである・・・・
これを読まれた先生は、岸野君、できすぎだよ、とちょっとはにかまれておっしゃったことを覚えている。
このように、小西先生には長年にわたり公私ともに大変お世話になった。感謝の念に耐えない。先生のご冥福をいつまでも心からお祈りするしだいである。
(きしの・えいじ)