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Dual ウィズダム和英辞典

ウィズダム和英辞典 小西友七先生追悼コラム

小西先生の思い出 井上永幸(『ウィズダム英和辞典』編者・徳島大学教授)

小西友七先生との最初の出会いは、『英語教育』(大修館書店)誌上の「クエスチョンボックス」欄であった。この欄を知ったのは、中学・高校と郷里の尾道市で通っていた私塾経営者で語法研究家の忍甲一先生からのご教示による。特に、高校当時は、発刊されて間もなかった分冊の『続・クエスチョンボックスシリーズ』(大修館書店)を毎晩むさぼるように読んでいた。このような具合であったから、『英語教育』の「クエスチョンボックス」欄に質問を送る決心をするのは時間の問題であった。高校3年の終わり頃から大学4年生にかけて、「小西先生にお願いします」という書き出しで何度か質問を送って全てに誌上で応えていただいた。大学在学中は、まず小西先生の『英語シノニムの語法』(1976、研究社)を、次に、『現代英語の文法と語法』(1970、大修館書店)、『英語の前置詞』(1976、大修館書店)、『現代英語の文法と背景』(1964、研究社)、『アメリカ英語の語法』(1981、研究社)などと読み進めていった。卒論ではwithinの語法を扱ったが、関係論文のコピーを送っていただいた。また、大学・大学院在学中は、あの独特の几帳面な小さな字で、個人的な質問に答えていただいた。ネイティブスピーカーへのインフォーマントテスティングの依頼なども何度かいただいたが、アンケートのための用例の作り方について「だんだんプロの聞き方に近づいてきましたね」とお言葉をいただいたときは妙に嬉しかったのを覚えている。

大学4年生の終わりころに、小西先生より、「辞書に興味があるようなので、今度つくる辞書の執筆をやらないか」というありがたいお話をいただいた。これが、『ジーニアス英和辞典』(1988、初版)だった。この経験は、私にとって大きな財産となったことは言うまでもない。大学院に進学後、米国留学の機会を得て、この仕事は途中で抜けることになったが、留学直前にご自宅におじゃまして、いろいろと心構えなどをうかがった。話が準備中であった英和辞典(後の『ジーニアス英和辞典』)に及んだとき、当時、小西先生が監修者のお一人で私が最良の辞書と心酔していた『アンカー英和辞典』(第2版、1981、学研)に言及して、「『アンカー』よりいい辞典ができるのでしょうか」と尋ねると、事も無げに「できるさ」と応えられたのを思い出す。

その後も、小西先生が編集された各種辞典に参加させていただく機会を得た。主として大学院生の間に『英語基本形容詞・副詞辞典』(1989、研究社出版)、『ニューセンチュリー和英辞典』(1991、三省堂)、また、島根大学教育学部在職中は『ニューセンチュリー和英辞典』(1996、第2版、三省堂)、『ジーニアス英和大辞典』(2001、大修館書店)に関わることができた。特に、初めて和英辞典に関わらせていただいた『ニューセンチュリー和英辞典』では、私の書いた原稿について、「まだまだ(英和の発想のままで)和英の発想になっていない」、初めて編修委員を務めさせていただいた『ニューセンチュリー和英辞典』(第2版)では、「説明の仕方が高校生には難しすぎる」などなど、何度か手紙で執筆方針などについて細かいご指導をいただいた。今考えると、これらの時期に小西辞書学を最も学ばせていただいたような気がする。

節目ごとにいただくお葉書では、「P.S. 年末年始から、現在もD項の君の筆跡を見ながら君の机に向かっている姿が目に浮かぶようですよ」(2000.1.24)といった暖かいお励ましの言葉がいつも心にしみた。小西先生からいただいた最後の辞書執筆へのオファーは『ジーニアス和英辞典』(第2版)の編集委員であったが(2002.7.29)、これは仕事の関係で残念ながら断らざるを得なかった。『ウィズダム英和辞典』(2003、三省堂)が完成して送らせていただいたときに、「これからは仲間ですね」とお礼状をいただいて、恐れ多いと同時に面映ゆく、責任の重大さを痛感した。この場をお借りして心よりご冥福をお祈りする次第である。合掌。

(いのうえ・ながゆき)

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