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Dual ウィズダム和英辞典

ウィズダム和英辞典 小西友七先生追悼コラム

小西先生の想い出 三宅 胖(『ウィズダム和英辞典』編修委員)

先生の訃報に接したのは昨年の10月2日、先生はすでにお亡くなりになって3週間たっていた。私は郵便受けの前に立ったまま思わず空を見上げた。いわし雲のたなびく真っ青な空が先生のご自宅のある六甲の方まで続いていた。ついさっき開いていたジーニアス大英和の tomorrow の用例 Think about tomorrow, but act for today. (Gandhi) がふっと頭に浮かんだ。そうだ、これは小西先生のご遺志にそったご家族の英断なのだ、と思った。そして一つの時代が終わったという重い厳粛な感覚が満ち潮のように自分の体に満ちてくるのを感じた。

小西先生にはじめてお目にかかったのは、神戸外大から神戸大学教育学部に英語学の集中講義に来てくださった時であった。当時、教育学部英語科には文学がご専門の先生ばかりで、英語教員養成に必要な語学の授業はこの先生方の兼担で実施されていた。したがって英語学の第一線でご活躍の小西先生の語法を徹底的に解析する授業はまさに目からうろこの感があった。テキストは『高等英文法演習』(荒木一雄・小西友七:英宝社)で、文法解説の本文に続く30ページ程度の演習部分が授業で扱われた。その内容は主として20世紀はじめごろの小説の抜粋各1.5ページに対して35~40程度の設問がついていて、これに答えていくといったものであった。例えば、O. Henry の After Twenty Years の抜粋の最後の部分:The note was rather short. Bob: I was at the appointed place on time. When you struck the match to light your cigar I saw it was the face of the man wanted in Chicago. Somehow I couldn't do it myself, so I went around and got a plain clothes man to do the job. (36) on time はイギリス英語ではどういうか。(37) it was …の it は何をさすか。(38) do it の it は何をさすか。(39) a plain clothes man の発音は? のように、発音、文構造、慣用語法、類義語、文体から時には文法を超えた談話の構造にいたる広範囲の知識が求められるものもありで、専門課程に上がりたての私にはそれまでの学校文法や本文の文法解説で得た知識と、持っている辞書(研究社大英和、三省堂クラウン、COD)の検索くらいではとうてい歯が立たないものが続出する。金魚鉢のメダカが突然琵琶湖に放り出されたようなものである。したがって一日4こま連続で一週間くらい続くこの集中講義では、学生の発表に添えられる先生の解説に耳をそばだてて聞かないとたちまち迷子になってしまいそうであった。受講生は50名程度だったと思うが、先生はあまり大きな声でお話にならないので、私たちは前2列あたりの席取に躍起になり、休憩時間に入ると教卓の周りに集まって先生を囲んで質問した。いま思えば、先生はさぞお疲れだったことであろう。しかしそんなことを配慮する余裕もないほど、先生の解説は聞けば聞くほどその先に何かがある、もっと知りたい、と興味を掻き立てられた。ちなみに、上記の引用箇所はご著書『現代英語の文法と背景』(研究社) “It の射程”で取り上げられていて、あのときの授業を彷彿とさせるものである。

そんなある日、一日の授業が終わった後も、質問と回答のやり取りが尽きず、冬至の前後の頃で外はとっぷり暮れていた。外部から講義に来てくださる先生のお世話を担当しておられる専任の先生が心配して教室に入ってこられて、「先生をいつまでもお引止めしてはいかん」と私たちをたしなめられた時、小西先生は「いや、僕が楽しんでいるのです、どうぞお構いなく、どうも、どうも」と、おっしゃって、その先生がご自分の車で小西先生をお送りするという慣行を丁重にお断りになった。私たちも恐縮して「先生、今日はこのくらいで、どうも失礼致しました」と申し上げると、「じゃ、一緒に出ましょう、続きは歩きながら」とかおっしゃって、冷たい風にコートの襟を立てて、みんなで駅までの坂道を下りていった。闇の向うにネオンや灯火がきらきら光る市街地を見おろし、あのあたりはジングルベルが流れているのかなと想像しながら、さっきの話(確か「Christmasに on/at/in をつけたらどうなるか」だったと思う)の続きをなさる先生の声が子守唄のように心地よかった。そのとき、言葉を研究することの楽しさがその研究者である先生への淡い憧れと重なり合って私の中でちいさく芽吹きはじめたような気がする。後に小西先生が教育というものはいつの時代、どんな状況でも1対1の対応が教師対生徒の関係の基本だ、といわれたとき、この日のことを懐かしく思い出したものだった。

その数年後に神戸外大の大学院で先生のゼミに入れていただくことになった。このことが私の今日にいたる辞書人生の始まりになろうとは思いもよらなかった。『英語慣用法辞典』(三省堂)の初版の改訂を皮切りに、『アンカー英和辞典』(学研)の初版の改訂、しかしゼロから立ち上げる『ジーニアス英和辞典』(大修館書店)初版の執筆では、見出し語一つを完成するのにも何週間もかかり、刻々と迫る締め切りを前にしても割り当てられた半分くらいしか仕上がっていなかった。途中で放り出すわけにもいかず、そうかといって残りを仕上げることはとうてい不可能であったから、生きた心地がしなかった。思い余って先生に打ち明けると、「今すぐ残りを全部放出しなさい、後のことは心配せずに」とさらりと言われた。その瞬間つぶされそうな重圧が一挙に消え去った。一夜明けるとほろ苦い敗北感が残っていたのは確かだが。先生は第二次大戦であの悲惨なインパール作戦に従軍され、ご自分の指揮下にある隊員を誰一人戦死させずに帰還されたそうであるが、私もまたこのとき先生によって救出され生かされた。

『前置詞活用辞典』(大修館書店)など前置詞関係の企画へのお誘いがあったときは、「冠詞と前置詞はまったく自信がありませんので」と申し上げた。すると先生は「あなたのためにならないようなことなら僕は勧めたりなんかしませんよ」と、いつになくきっぱりとした口調でおっしゃった。その迫力にけたおされて、恐る恐るお受けした。このときに読んだ先生の前置詞と副詞の間に見られる流動性についての論考は長い間つかみ所がなくて敬遠していた前置詞の正体を見事にえぐり出してあり、わたしの前置詞に対する苦手意識を興味津津に一変させた。以来、ご著書『英語の前置詞』(研究社)は今では書き込みと手垢にまみれてしまったが、私の大切な座右の書である。

80年代に入って、和英辞典(『ニューセンチュリー和英辞典』(三省堂))の企画に協力してほしいという趣旨のお手紙を先生からいただいた。英和辞典が60年ごろから、新しい言語学の知見を取り込んで、躍進を遂げているのに対して、和英辞典は高校や大学の現場では無用の長物と無視されている状況であった。しかし一方で世間では、国際化の掛け声が喧しく、英語による発信力の向上が強く求められるようになった。そんな時代の要請に応えて学習者の身の丈に合った使いやすい辞書にする、語法解説をしっかり入れてそのルールの理解を助ける応用性の高い用例を組む(用例指示型辞書)という新機軸を先生は提案された。更に、教師が作文の授業で生徒に話しかけるように、「これはこうは言わない」(非文情報)、「こういう状況ではこうも言える」(言い換えとその使い分け)等、アンカー英和辞典で初めて登場した小西先生らしい温かさを伝える要素が和英の領域にも遂に取り入れられることになったと思うとわくわくした。その頃先生は、難しい病気になられた。にもかかわらず司令塔として緻密な構想を練り、適材適所を見極めた陣容を固め、作業がスムーズに進むように細やかな気配りをなさった。外国語辞書編集室の中嶋孝雄氏が先生の構想を実現しやすいように、あらゆる有用な資料収集と資料作りをして下さり、実にきめの細かいサポートをして下さった。こうして私達の和英編集丸は、海原に乗り出すことができたのである。その後改訂を重ねて今日に至っている。

そもそも辞書作りというものは、多くの人たちが各持ち場でその働きを果たすことによって成立するものであるが、それぞれの持ち場で作業を進める過程は孤独である。この和英辞典の編集には、初版ではさまざまな困難が立ちはだかったために8年くらいの年月を費やした。とりわけ、日本語の語義分析では認知的意味論の知見は大いに役には立ったがそれは部分的であって、既存の国語辞典にはまだ十分に反映されていない。先生は闘病中でできるだけ遠慮すべきところであったが、いよいよという時には先生に相談のお手紙を差し上げる。すると先生は即お返事で力強いエールを送ってくださった。折々にいただいたお便りはほとんどが葉書であったが、署名を見る必要もないほど個性的な細かい横書きの文字がしばしば宛名を書く表の下部に続いている。ご自身の近況や謝辞に続いて、進行中の辞書の問題点や注意すべき事などを、指示や命令ではなく、「あなたもこの点では難儀しているのではないか」とか、「日本人にはとかくこれこれなる傾向があるようで…」「これは読んでくださった方からの注文ですが」といった前置きで、具体例を出しながら私にたくさんのことを気づかせてくださった。また時にはご自分の著書やクエスチョンボックスの関係する箇所まで示して下さることもある:「本件についてはあなたのせいではありませんのでご放念ください、私はちっとも couldn't care less or could care less ですから(『アメリカ英語の語法』p.122)」、「このことはまだ between ourselves [you and me] ですが」そんな時はその論文などに戻ってもう一度読み直したり、先生の真意は何か、求めておられるものは何か等、探り当てていく謎解きもとても楽しかった。たった一枚の先生からの葉書が何十枚にもおよぶメッセージになって私の中で膨らみ、私を前へ押し出してくれた。だから私はその葉書を次のお便りを受け取るまで机の前にピンアップすることにしていた。先生からの最後の葉書(06年4月20日付)の文面は「世界一の和英を目指して! 小西友七生拝」で終わっている。その後奥様から暑中見舞いのお礼状をいただいたが、二つの仕事が重なって先生は大変お忙しい様子が書かれていただけだった。

大樹は倒れて其の一生を終えてもなお森に新しい命を育むゆりかごとなる、といわれているが、小西先生は私の辞書作り人生において天を覆わんばかりに燦然と輝く大樹であった。昇天された今も、あとに残されたたくさんのご著書、辞書、Question Box から自筆のお便りにいたるまで、そのどれを手にとっても、先生の語法研究に対するあふれるような情熱が伝わってきて、精緻な解析をなんの気負いもなくやさしくとつとつと語りかけてくださる先生がそこにおられるような気がする。

(みやけ・ゆたか)

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